人との関係において、
依存したくないなって思っていたんです。
それってやっぱり最終的に人は一人だし、
何かがなくなると「幸せじゃない」っていう状況って非常に不健康だなって思っていたんです。
依存が発生した時点で、やはりそれがないと「不幸せ」になると思うんです。
なので僕は「依存」ってものに対する嫌悪みたいなものがあった気がしています。
あとは単純に依存している姿って格好悪いなって。笑
そしてたまたま見ていた本。
國分功一郎「ある高校の哲学的な一日 」
みんな普段いろいろなことに依存して生きているけど、それが分散しているから依存している事実を気にかけずにすんでいるってことだよね。
基本的に人は何かに依存していると。
つまり、頼る先は人だけじゃない。仕事とか趣味とか、あるいは評判とかでもいい。「自分の心を満たす」「傷を癒やす」というときに、別に恋人との関係だけに頼る必要はない。
そして僕は依存っていうのは人間関係においてだけ発生するものだと勝手に思っていたけども、実はそうではないと。
「依存」っていうのはもっと多くの場所で、いろんなことを対象に起きているんですね。
そう言われればそうですよね。仕事だって何かを満たすためにやっているし、
趣味だってそう。楽しいからとは思いつつも、それがあることで自分を肯定する材料だったりすると思います。
これにはハッとさせられました。
嫌悪していた「依存」は当然のように自分の生活に根付いていたからです。
だから、依存先が少なくなると、「私はこの人がいないと生きていけない」って状態になって、依存の事実が重くのしかかってくるようになる。だからいろんなところに依存先を増やしていくことが実は自立だって話。
そして私が嫌っていた、いわゆる「依存」というのは依存先が少なくなっているっていう状態だったんですね。
確かに「依存」が重い人の特徴として、狭さはありそうだなと思います。
そういう意味では自分自身の幅を広げていくことが自立の第一歩なのかもしれません。
しかも、恋の根拠って今言った心の傷みたいなネガティヴなものかもしれない。でも、「この人と一緒にいると自分の心の傷がうまく癒える」とか「すごく心地がいい」とか、やっぱりそれがいい方向にいくことはあって、それがうまくいったときに、人は誰かのことを「この人は大事だ」と思うようになるんじゃないかな。
そして、恋愛ってどうやってもやっても「依存」の関係性にはなるよなと思っていたのですが、それは当然あるものとして考えてもいいのかもしれない。
依存というのは必ずしも悪いことでなく、
依存先を減らすと、非常に悪い顔を見せるし、
依存先を増やした先にある、健全な依存は愛に近づく。
正義と悪ですらそうであるように
完全にどちらかが悪いものなんてないのかもしれない。