そんなこんなで、僕はラジオと出会いました。
しかし、本当に失礼な話ですが、
ラジオっていうのはテレビの下位互換だと思っていたんですよね。
これは僕の思考の浅いところなんですが、
テレビっていうのは映像と音で伝えるメディアで、
ラジオっていうのは音だけで伝えるメディアなんだから
当然テレビの方が上位であるとなんの疑いもなく思っていたし、
ラジオはオワコンだと本気で思っていました。
なんとも浅はかな発想です。
要するに「テレビ-映像=ラジオ」っていうイメージだったんです。
とんでもないアホです。笑
でもこういうイメージの人って世の中にはかなりたくさんいると思うので、
安易にこの考えをバカにもできないというか、、
これはラジオを好きになった後の話なんですが、
Mr.Childrenの桜井和寿さんと伊集院光さんの対談の音声を聞きました。
桜井さんがこんなことを言うんですね。
「僕は星座でいうと星を並べたいと思っていて、
さそり座だったらサソリに見えるところに星を配置するのが歌の役割だと思って、
そのサソリの絵を描くのはリスナーだと思っているから、
聞いた人みんなが一つのサソリを想像するような星の配置は避けようと思う。」
あぁなるほどと。ラジオから話は少しそれますが、
与えられる情報が多ければ、それがわかりやすかったり素晴らしいってことではなくて、そう見える何かを提供して自分の中の思い出とか過去と結びつくから強烈な価値体験になるのだなと感じました。
当時、西野カナとかがすごく流行っていたのですが、
好きになれなかった理由もこれで、凄くわかりやすいストレートな言葉ゆえに、
全く同じサソリを自分の中に持っている人は共感できたのかもしれないけど、
違うサソリを心の中に持っている人からすると、これにはほぼ共感できないって状況になってしまうんですよね。
そして時代とか年代を超えて愛される歌や歌詞ってやはり、
この星の配置を提供しているからこそ、ずっとウケ続けているんですよね。
思い出とか、辛い気持ち、嬉しい気持ち、恋愛、失恋、別れ、出会い
それぞれいろんな歌があるけど、最大公約数みたいなものを提供できているから、
いろんな人が共感できるし、人によって違う価値をそこに見出せるから、
曲の多様性にも繋がってすごい価値を生み出しているんだと思うんです。
「松の木におじやぶつけたみたいな不細工な顔の女」っていう言葉が好き
伊集院さんは桜井さんの言葉と同じ文脈で、この自由度の高い言葉が好きだと語っています。
この言葉のすごいところは誰もが松井が女装したような人を思い浮かべるということ。
そして、みんなの心の中にいる同級生を思い浮かべて時間を共有できる。
テレビだとそれによって想像されるモデルさんの写真を出して、
こんな人ですよとやってしまう。
どちらが正しいとかはないんだけど、
確実に自分の中の何かとリンクした時の方が、
強烈な価値体験を生み出す。
これが不思議なところなんですが、
映像という要素がなくなったことで、
限られた音声という要素だけで伝えなければならないということから工夫が生まれ、
そして受け手もその言葉から自分の中の
「松の木におじやぶつけたみたいな不細工な顔の女」
や「サソリ」を必死に探し出すんですね。
そして映像がある時以上の、強烈な「映像」を観ることになるんです。
表層的な要素がなくなるから、
負けているとか下位互換だなんて単純なものではない。
(なんか人間にも言えそうですよね。)
音声だけのメディアだからできること、
映像もあるメディアだからできること、
それぞれの良さがある。
それぞれに互換性なんてない唯一無二の存在だったんです。